センスがいい|伝えるということの難しさ #KORO

人のこと

とある日、カフェで過ごしていた時に会話がふと耳に入ってきた。

「めっちゃセンスいい〜!」

そんな何気ないやりとり。

なぜが頭に引っかかってアイスコーヒーを飲む手が止まってしまった。


「センスがいい。」

合コンのさしすせそにもランクインする人を褒めるといばのワンフレーズ。

たしかに褒め言葉にはなるのかもしれない。

どういったところがとか説明があればきれいな褒め言葉になるけれど、

ワンフレーズでセンスがいいはひねくれている私にはどうもひっかかって上からに聞こえてしまう。

脳内のひろゆきが言う。

『それってあなたの感想ですよね』

褒めるという行為はやり方を間違えると上から目線になってしまうし、受け取り方次第では褒められていると思われていない可能性もある。

NGワードがどんどん増えるこの世の中。

安易に人を褒めることさえも躊躇してしまう生きにくい世の中になったよなと思う。

センスいいというひと言から脳内でどんどん考えが広がっていく。

そもそもな話

そもそもセンスがいいってどこをどう判断して言っているのか

どの要素を感じ取ってセンスがいいにつながるのか。

個人的に思うセンスがいいってなんだと考えてみる。

まず、センスという言葉自体が絶妙な感覚のことを意味しているし、

ぱっと見でいいと思ったものにも使えるし、じっくりみて考えた結果にも使えるし便利な言葉。

人を褒めるのにも使えるし、空間や物を褒めるのにもつかえる。

個人的には、本人が自分や空間や物のことを客観視できていて似合うものをわかっていてしっくりきているというのと、自分のその人に似合う、しっくりくるの解釈の一致によってセンスがいいという感覚になるように思う。

発信側と受取側の解釈の一致、感覚の一致が故に生まれるものがセンスがいいなのでは?と脳内での考えがまとまった。

評価をする側とされる側

なにごとも相対的で、評価する人がいれば評価される側がいる

ものづくりをしている身からすれば、作る人がいれば使う人がいるし、売る人がいれば買う人がいる。

1-10まで1人でやっている作り手がいたとする。提供するまでは1人かもしれない。

けれども、買ってくれる人がいなければ生活は送れないから1人で完結しているようで1人でない。

この世の中はなにごともそうやって成り立っているよなとふいに思わされる。

コロナ禍があり”個“が際立つようになったけれど、結局のところ1人で完結することなんて見る視点を変えれば1つもない。

自分1人で生きていくことはこの地球にひとりぼっちにならない限り、どう祈っても唯一叶わない願いだなと思う。

一緒に暮らしている家族やパートナー、もちろん動物たちも。仕事でもそうだし、相手がどうしたら生活しやすいか、使いやすいかの思いやりが世の中に溢れれば思いやりの交換になり、ハッピーの大渋滞。

そんな世の中にならないだろうか。

センスがいいの一言から思考が広がってこんなところにたどり着いた、とある1日の出来事でした。

最後までご愛読ありがとうございました。

KORO

学生時代から映画や本、服飾、学問、ものづくりなど様々な分野に興味を持ってきた。大学では服飾を学び、卒業後はさらに靴の知識・成型を学ぶ。縁あってオーダーメイドビスポーク靴ブランドで働きながら、日々構想を練り、2022年セレクトショップ「SPINTO」を立ち上げる。
現在はオンラインショップを中心に、作り手としても使い手としても良いと思うモノを展開、販売している。モノづくりを通して”ヒトとモノ”だけではなく”ヒトとヒト”をつなげていく役割を担いたい。

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